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【夏生さえり小説<2>】理想の家探し「年上ぶりたい夫、妻ぶりたい妻」

配信元ARUHIマガジン
【夏生さえり小説<2>】理想の家探し「年上ぶりたい夫、妻ぶりたい妻」
「いや、だから、絶対にこっちのほうがいいんだって」

頬杖をついたまま、夫が言い放った。片方の頰だけがぐにゃりと上がったいびつな表情に、にじみ出る不機嫌。夫の話をわたしがなかなか理解しないときに、よくこの顔を見る。恋人同士だった数年前は、その不機嫌な感情を取り除こうとこちらも必死になったものだったが、今はもう慣れてしまった。いい意味でも、わるい意味でも。このあと、しばらく機嫌はなおらないだろうが、気にやむほど重症ではない。……そんな「不機嫌の見通し」もできるようになった。夫はそのまま席を立ち、もう20分も戻ってこない。きっと寝室でふてくされているはずだ。

きっかけは、友人の話だった。
パジャマを着て完全にリラックスしている夫に、今日聞いたばかりの話をしたのだ。
【夏生さえり小説<2>】理想の家探し「年上ぶりたい夫、妻ぶりたい妻」
「そういえばリカさんたち、逗子に家を買うらしいの」

リカさんというのは友人で、今日たまたま渋谷でばったり会った。ほんのり膨れたお腹をみて、恐る恐る聞いてみると、妊娠6カ月だという。そうしてさんざん子どもの話で盛り上がり、帰り際に「まだ高井戸で暮らしてるの?」と聞いたときに、逗子に家を買うことを知った。

逗子がどれだけ良い場所なのかは知らないが、リカさんは興奮ぎみに「海の見える暮らしが、この年でできるなんて思わなかった」と喜んでいた。「ずーっと続く海を見ているとね、なんだか細かいことはどうでもよくなってくるの」とも。
わたしからすれば、リカさんは昔から温厚な性格で、細かいことはどうでもよさそうに見えたが、彼女も彼女なりに悩みなどがあったのかもしれない。海は、そんな力を持つのか。
便利さだけを追い求めてきたわたしには、海の見える暮らしはまだ想像もできない。できるだけ都心に近く、できるだけ駅に近く。しかし、それだけじゃない暮らしの良さがあるようだ。……そんな話を、夫にしたかったのだ。
なのに夫は開口一番、「へえ、中古マンションかな? 賢いじゃん」などと言う。

もっと、「なんで逗子なのか」とか「海沿いの暮らしってどう思うか」とか、そんな質問がくると思っていたわたしは、的外れな質問に笑ってしまった。しかも、「賢いじゃん」って。

「いや、マンションかどうかも知らない。『賢い』、ってなにその上から目線(笑)」。

今思えば、そんなふうにからかったのが間違いだった。夫は苛立ちを隠すようにして、極めて冷静(なふりを装いながら)に、家を買うことのメリットを話し始めたのだった。賃料と比べてどのくらい安く済むのか、今よりもどれくらい広い家に住めるのか。自分が決して知ったかぶりをしているわけじゃないのだ、というアピールは延々と続く。一度フォローしようと「たしかに賢いよね。子どもも生まれるし、きっと将来を考えているのね」と物知り顔で口を挟むと、「家を買う理由は、子どもが生まれるかどうかだけじゃないだろ」と怒られた。夫はおどろくほど詳しかった。どうしてそんなことを知っているのだろう、といぶかしく思うほどに。

それにしても、あんな口調で話し続けられると学校の先生を思い出す。物を知らない生徒に向かって、とつとつと話を聞かせるあのようす。

事実、夫はわたしよりも8つ年上で、長男気質。そのせいもあってか、普段からわたしを子ども扱いすることがある。恋人のときはそのこと自体も“かわいがられている”気がしてうれしかったものだが、結婚して、数年経ってからはもやもやとした気持ちが広がるようになった。

……妻として、“物足りない”と感じるのだ。

夫が年上ぶりたいのと同様に、わたしだって妻ぶりたいのだ。妻ぶる、と言っておきながら、それがどのような状態を指すのかわからないが、妹ができるとお姉ちゃんぶりたくなるように、なにかの「役割」をそれらしい顔で演じてみたいだけなのだ。

私たちはゆるやかに夫婦になり、未だに恋人のように仲良しでいられているのは誇らしいことではあるが、でも、わたしは妻で、彼女じゃない。なにかそれを証明するような振る舞いをしたい。誰に対して証明したいのかはわからないけど。
そんなぐらつく気持ちから、つい物知り顔で口を挟んでしまった。わかっている、今日の嫌な雰囲気は彼だけのせいじゃない。

しばらく経って、寝室をのぞきにいくと夫は眠っていた。布団に入らず、うつぶせになったまま。きっとイライラして携帯をいじっているうちに眠ってしまったのだろう。

「もう! またこんなところで寝て……」

小言を言ってみても、夫の反応はない。夫の大きな体を揺り起こし布団へ促す。
それにしても。なぜ夫はあんなにムキになっていたのだろう。わたしの態度が気に食わなかっただけなのだろうか。

次の日、会社で帰り支度をしていると、「仕事が早く終わった」と夫から連絡があった。平日にふたりで食事をとれる機会はそう多くないが、今週はもう2度目だ。

このまえ、生姜焼きを作ったばかりだから今日は……。献立を考えながら帰りの電車に揺られているうちに、いつの間にか眠りこんでしまい、次に目を開けた時にはもう最寄り駅だった。慌てて電車から降りて、乾燥しきった目をこすりながら改札を出ると、夫が待っていた。
【夏生さえり小説<2>】理想の家探し「年上ぶりたい夫、妻ぶりたい妻」

「あれ、待っててくれたの?」

心の浮き立ちが正直に湧き出たような声で話しかけるが、夫の表情はかたい。が、わたしにはわかる。夫はもう不機嫌ではない。ただ、バツが悪いだけだ。
昨日の残り香をまとっているふたりの空気を入れ替えるように、ぱっと手をつなぐと、夫もややうれしそうに握り返してくる。ふたりは口をきかないまま、階段をのぼる。一段ずつ、手をつないで、一緒に。

スーツ姿の夫と、手を繋いで帰るのは久しぶりだ。なんだかわたしたち、仕事終わりに待ち合わせをした恋人みたい。うれしくなって、そこでふと我にかえって笑ってしまう。昨日は、妻ぶりたいなんて思っていたのに。

夫が口を開く。
「昨日のことだけど」

「え、あ、うん」

「本当は、リカさんの話をされる前から、家を買わないかと話したくて」
「えっ!?」
「借りるより買ったほうがいいんじゃないかと思って、色々調べていて」
「あ、だからあんなに詳しく……」
「そう」
「なんだ、そういうことだったの」
「うん」
「そういうことだと思わなくて、茶化してごめん」
「ううん」

リカさんは海沿いに決めたけれど、わたしたちが家を買うならきっと都心だろう。お金のことはわからないが、きっと夫ならそういうことをいろいろと調べて、うまくやってくれる。わたしたちにはわたしたちらしい未来が待っている。そんなことは話さなくても容易に想像できた。

「家買うの、素敵だと思う」
「……本当?」
「でもお金のこととかあるから」
「それはもちろん」
「わたしそういうのよくわからないから、教えて」
「わかった」

じゃあまずはもらってきた資料があるから後で一緒に見ようか、と夫はうれしそうにわたしの頭をポンポンと撫でた。そんな夫をみていると、年上ぶらせていたっていいかと思う。昨日はわたしも変なことにこだわってしまった。妻ぶる、とか、年上ぶる、とか。

「あー、腹減ったな。今日のご飯なに?」
「なににしようかな、と思って」
「また生姜焼き食べたい」
「えー、また?この前も食べたのに?」
「だって美味しいから。だめ?」

機嫌を伺うように覗き込んでくる、料理のできないわたしの夫。目尻が垂れて、口角の上がったやさしい顔。

「……しょうがないなぁ」
「よっしゃ、ありがとう。うれしい」

「……。ねえ、わたしも、うれしい」
「ん?」

「いま妻ぶれた気がするから」

そう言ってみせ、大きなハクモクレンの木の横をきっちり通りすぎるまで、わたしは黙って夫の反応を待った。夫は何を言うべきか迷っているらしかった。
ハクモクレンの最後の枝が、目線からそっくり消えていくころ、夫は言う。

「妻ぶるっていうか、妻でしょ?」

ふわっと気持ちが明るくなる。そうだ、妻なんだ。

「なになに?」と不思議そうにする夫を置き去りにして、思考が未来へと飛んでいく。妻として、この先も一緒に積み重ねていく未来。これから膨らむハクモクレンの蕾。そのあとに咲くハナミズキ。そしてまだ見ぬ家で暮らすわたしたち。全部の映像がぼんやりと一緒くたになって襲ってきて、とても可憐な未来を垣間見た気がした。

「結婚して、よかったな」

そう告げると「よくわかんないけど、そんなに家がうれしいの?」と笑いながら返された。違う。本当は違うけれど、わたしは答える。「うん、うれしい」。

文:夏生さえり

夏生さえり
フリーライター。出版社、Web編集者勤務を経て、2016年4月に独立。Twitterの恋愛妄想ツイートが話題となり、フォロワー数は合計18万人を突破(月間閲覧数1500万回以上)。難しいことをやわらかくすること、人の心の動きを描きだすこと、何気ない日常にストーリーを生み出すことが得意。好きなものは、雨とやわらかい言葉とあたたかな紅茶。著書に『今日は、自分を甘やかす』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)。共著に『今年の春は、とびきり素敵な春にするってさっき決めた』(PHP研究所)。『口説き文句は決めている』(クラーケン)。
Twitter:@N908Sa

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